天童市と将棋駒

天童市と将棋駒についてご紹介します。

将棋駒の発祥の地

そもそも将棋駒はインドを発祥の地として、西洋に渡り「チェス」になり、東に渡り将棋となりました。
将棋駒の製造は、1500年代に確立しました。その後、江戸時代には幕府の保護を受けた「将棋家元制度」の成立により、五角形の将棋駒独特の形はもちろん、将棋文字までも複数に統一なり、現在まで大きな変化はなく受け継がれてきました。それは、大阪にある(社)日本将棋連盟連盟関西本部「将棋博物館」や水無瀬神宮所蔵の将棋駒をみてもわかりますし、江戸時代の「浮世絵」にも多数描かれていることから見てもはっきりしている事実です。

天童将棋駒の起こり

天童将棋駒の起こりは、1831年織田藩が天童に城を移し家臣に「将棋駒」作りを内職として奨励したのが始まりです。数少ない資料ですが、
①1846年(弘化3年)の年号がある………駒文字の包装紙
②1870年(明治3年)の年号がある………『歩兵操典裏表紙」の残る駒文字
③江戸末期から明治初期に製作した将棋将棋駒の数々。
これら資料が、天童における将棋駒づくりが100年歴史があることを証明しています。将棋駒の五角形は12世紀頃の遺跡から数々出土しておりますし、将棋文字も、当時の天皇や書家の文字が現在まで脈々と受け継がれております。

江戸時代の将棋駒づくり

天童の将棋駒産業が天童織田藩によって推奨されるようになったのは、江戸時代のことです。将棋駒つくりは下級藩士の内職として始めたといわれています。天童織田藩の窮乏した財政の中、下級藩士は生活の窮迫にあえぎ、内職によって家計を補いました。将棋駒製作がその一つです。当時、織田藩の用人職にあり、のちに勤王の志士として知られた吉田大八が、その受ける扶持だけでは生活できなかった藩士に将棋駒の製作を奨励しました。武士が手内職を営むことについては、他の執政の反対もありました。しかし、吉田大八は、将棋は兵法戦術にも通じるとの考えから、これを遊ぶことも、また駒を製作することも武士の面目を傷つけるものではないとして、その製造法を広く紹介しました。

将棋駒のあれこれ

将棋駒の製作で重要な原材料は、木と漆以外にはありません。もちろん、将棋駒が確立した年代より変化はありません。駒は単に五角の形が重要なのではなく、駒木地の「木目」や「木肌」も大切であり、しかも「色・つや」・「1枚の駒の重さ」までも考慮した繊細さが残っており、将棋駒は木以外の材料 は受け入れない日本の「木の文化」を象徴しています。
漆についても、「粘り」や「のび」は他の材料には無い特性で、とって変わることはできません。 1500年代の確立した当初は、「墨」もありましたが現在はありません。
将棋駒は、駒木地を作る「木地師」・駒木地に字を書く「書き師」・駒木地に字を彫る「彫り師」と 明確に分業体制ができております。木地師は、丸太材より「鋸」や独特の「駒切りナタ」を使用して、1枚1枚手作業で作成します。その熟練した「ナタ使い」や木地の木目を大事にする木地作りは、手作業作業以外ではとって変わることのできない作業です。書き師は、下書きなしに駒木地へ直接「将棋文字」を漆で書いていきます。
その技術は、数秒で1枚の駒を書く早さで、スピ-ドはもちろん細い部分や、かすれ具合は「熟練」を要し、完成品は美しく人を魅了します。 彫り師は、将棋独特の文字を印刀一本で彫りあげます。太い字は深く、細い字は浅く彫ります。彫った所に漆を入れる作業は、単純ですが経験が必要な作業といえます。

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